平成26年07月06日 同志社大の創設者「新島襄の旧宅」に立ち寄りました。
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1843年に東京神田で生まれた新島襄が、キリスト教徒となってアメリカからの帰国後に父母とともに安中で三週間過ごした家です。
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昭和39年に有志によりこの位置に移築保存された。
新島襄の遺品や関係資料を展示している。
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新島襄とその妻・八重
八重は戊辰戦争では男装のいでたちで会津藩 鶴ケ城にこもって大砲隊の指揮をとったという。すごい女性兵士である。
その八重が維新後は兄をたよって京都に移住する。洋装洋髪の女性としてうまれかわり、英語をまなび、キリスト教徒、のちに新島襄と結婚した。
新島襄とその妻・八重について、いったい新島襄はどういう人間だったのか。
八重はどういう女性だったのでしょうか。
帰国した新島襄は、日本はすでに明治政府の時代になっておりました。
日本にもどった襄は安中で両親と再会を果たし、ただちに京都で英学校の開校にむかってあるきだしている。
日本人に高等教育をもたらした明治六大教育家の一人として、志に感銘を受けました。
妻の山本八重ですが、彼女の人生は、およそ3つにわけて考えられます。
会津にうまれそだった娘時代。
新島襄とともに生きた京都時代。
そして社会福祉につくした晩年です。
兄から西洋式の銃や大砲のあつかいをならう。
知らず知らずのうちに西洋学の考え方が身につけていった。
そういうところで西洋式の合理主義をうけいれる下地がおのずとととのっていった。
そんなふうに思います。
引き続き世界遺産の「田島弥平旧宅」に向かいました。つづく