平成28年5月4日 横浜山手のフランス山公園を訪れた。
ここを歩くのは東日本大震災の発生の前、実に6年の歳月が立っていた。
麓の山下埠頭にV100を止めて山を登っていく。
港の見える丘公園はその名が示すように横浜港を見下ろす展望が魅力で、四季を問わず多くの観光客が訪れる。
その港の見える丘公園の北側部分は木々が茂って緑濃い様相を保っている。
この区域は「フランス山」と呼ばれ、港の見える丘公園の中の一区画であると同時に、独立した別の公園のような表情を見せる。
フランス領事館の遺構の傍らに、風車の塔が建っている。
風車はもちろん当時のものではなく再現されたものだが、1896年に領事官邸が建てられた際、このような風車が造られ、井戸水の汲み上げに用いられていたのだという。
「フランス山」は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、そこから「フランス山」の名がある。
以前は鬱蒼とした林の端を散策路が辿るばかりの場所だったのだが、平成14年度から平成16年度にかけて段階的に整備が行われ、かつてのフランス軍駐屯地、フランス領事館の跡地としての歴史を偲ばせる庭園として再オープンしている。
1862年に起きた生麦事件が象徴するように、攘夷派の浪人などによる外国人殺傷事件が少なくなかった。これを受けてイギリスとフランスは自国民の保護を名目に、横浜居留地への自国軍の駐屯を決定する。幕府もこれを認め、1863年にはフランス海兵隊が横浜に到着、山手186番に駐屯を開始した。現在の「フランス山」である。
駐屯したフランス軍兵士は陸軍20名から始まって、その後は300名以上を数えたという。
「港の見える丘公園」へ行くにはいくつもの道筋があるが、今回はフランス山から回ってみた。
今でこそ横浜を代表する観光地のひとつであるが、この一帯は幕末から明治8年までイギリス、フランスの軍隊が駐屯する場所であった。
軍隊撤退後はフランス領事館・領事官邸、イギリス領事官邸が置かれ、関東大震災、横浜大空襲などを経て今では横浜市が所有管理する公園施設となった。
ここを歩くのは東日本大震災の発生の前、実に6年の歳月が立っていた。
麓の山下埠頭にV100を止めて山を登っていく。
港の見える丘公園はその名が示すように横浜港を見下ろす展望が魅力で、四季を問わず多くの観光客が訪れる。
その港の見える丘公園の北側部分は木々が茂って緑濃い様相を保っている。
この区域は「フランス山」と呼ばれ、港の見える丘公園の中の一区画であると同時に、独立した別の公園のような表情を見せる。
フランス領事館の遺構の傍らに、風車の塔が建っている。
風車はもちろん当時のものではなく再現されたものだが、1896年に領事官邸が建てられた際、このような風車が造られ、井戸水の汲み上げに用いられていたのだという。
「フランス山」は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、そこから「フランス山」の名がある。
以前は鬱蒼とした林の端を散策路が辿るばかりの場所だったのだが、平成14年度から平成16年度にかけて段階的に整備が行われ、かつてのフランス軍駐屯地、フランス領事館の跡地としての歴史を偲ばせる庭園として再オープンしている。
1862年に起きた生麦事件が象徴するように、攘夷派の浪人などによる外国人殺傷事件が少なくなかった。これを受けてイギリスとフランスは自国民の保護を名目に、横浜居留地への自国軍の駐屯を決定する。幕府もこれを認め、1863年にはフランス海兵隊が横浜に到着、山手186番に駐屯を開始した。現在の「フランス山」である。
駐屯したフランス軍兵士は陸軍20名から始まって、その後は300名以上を数えたという。
「港の見える丘公園」へ行くにはいくつもの道筋があるが、今回はフランス山から回ってみた。
今でこそ横浜を代表する観光地のひとつであるが、この一帯は幕末から明治8年までイギリス、フランスの軍隊が駐屯する場所であった。
軍隊撤退後はフランス領事館・領事官邸、イギリス領事官邸が置かれ、関東大震災、横浜大空襲などを経て今では横浜市が所有管理する公園施設となった。